Blog15.小学校の組体操

 今回から数回に分けて“人材の活用”と“人材の育成”――多彩な人々と良い組織運営(経営)をしていく上での基本的なこと――を考えていく。
 今回は、小学校の組体操について触れてみたい。
 
 少し前になるが、A新聞の声の欄から、まだ学校の体育祭で組体操が一斉に行われているのを知った。組体操は、好きな人にとっても傍観者にとっても「楽しいこと」かもしれない。一方、体力的・精神的苦痛で泣いている人もいるのだ。社会にはそういう人たちが高い確率で存在する。多様な人で構成されている社会なので当然のことである。
 私の記憶では、自主的な活動はやった感が高まり、その体験が記憶されることで、先々の苦境の際に助けとなることが多い。一方受け身でやる活動は、そのような効力にはなり難かった。
 学校教育は、軍隊育成の場ではない。学校発祥当時の目的(軍人養成の場)を一掃しないと世界の先進国から後れを取ることになる。画一的人材ではなく、多様な人材育成を目指す教育方針にすべきである。体育祭であれば「組体操グループ」に絞るのではなく、皆が参加できる多彩な活動にすべきである。
 なぜ、いまだにこうなのか?と考えた時に浮かんでくるのが、皆と同じことをやらなければならない日本文化の存在である。つまり、村八分という掟でムラの運営に統制をかけるムラ社会のことである。現代の官民学あらゆる組織の会議においても席順に序列ができるのは、ムラ社会の影響である。官民学にしっかりムラ社会が入り込んでいるのだ。
 学校の体育祭での組体操においてもムラ社会文化が指導者と生徒に何らかの影響が及んでいると考えている。
最近のニュースで、大阪の小学生が5分間持久走後に心不全で亡くなられたことを知った。今のコロナ禍にありマスクを着けていたようであるが、因果関係は定かでない。
 その後のニュースで“マスクをするか外すか”、“誰がマスクの指導をするか”といった議論が展開されていることに違和感を覚えた。
 私は、マスクを着装していたかどうかの前に、5分間持久走がこの生徒にとり意義ある授業であったのかを議論すべきではないかと考える。つまり、彼は5分間の持久走に十分に耐えうる体力を持ち得ていたのかという疑問である。
 社会は多様な人々で構成されている。学校教育は、そのことを教え、また多様性を勘案した教育をすべきであろう。
 次回は、20202月に亡くなられた野村克也氏の人材の活用法について紹介する。

                                               以上